ぶらくり会31年3月例会(第198回)報告
ぶらくり会31年3月例会(第198回)報告
開催日時:3月13日(水)午後6時30分~午後8時
開催場所:ホッとスタジオ

講師:露の新幸(つゆの しんこう)様
落語家(露の五郎兵衛一門)
(略歴)
1974年(昭和49年)生れ
大阪府出身
2014年(平成26年)露の五郎兵衛一門の露の新治師匠に入門
落語家になる前は音楽のインストラクターとして専門学校で講義をしたり、劇団に所属していたこともあるそうです。
「毎日高座に上がること」を目標に精進の日々を送られている由。
講演テーマ:『音楽と落語と芝居』
出席者数:15名
3月度ぶらくり会は落語家・露の新幸様に講師となって頂き、落語および落語家の世界、落語家になる前に経験されていた音楽および芝居(演劇)の世界、そして、それぞれの世界で経験・修得しその後の人生に役立っていることプラスになっていること等をエピソードを交えながらお話して頂きましたのでその概要を報告します。
○落語および落語家について
まず、講師が現在取り組まれている落語の世界の修業期間には大阪と東京では差があり、大阪は大体3年、東京は少なくもは5年ほど過ぎれば自立しても良く、それまでは下働きだそうです。
元々、道の往来で演じていた上方落語に対し、江戸落語は室内で芸を披露していたので描写が細かいそうです。
上方落語では細かい描写をしない代わりに「小拍子」や「はり扇子」を使って音を出しながら演じていたそうで、当日は落語「東の旅発端」を演じながら小拍子、はり扇子の実演をして頂きました。現在では小拍子、はり扇子を使っての落語はめったにやられないそうですが、講師は師匠からこれらの道具を使う練習を随分やらされたそうです。
また、同じ演目を演じるにしても一門によってその味が変わるそうです。
次に寄席では開場時、開演時と終演時に太鼓を打ちますが、これも下座の仕事だそうで講師にはそれぞれの太鼓の意味と打ち方を実演しながら解説して頂きました。
開場と同時に打つ「一番太鼓」は以下の流れで打たれます。まず木戸口が開くが如く太鼓の縁をたたいて「カラカラカラ」と音を立てますがこれは身内、関係者に対する合図でもあります。そして「おろし」という太鼓を打ち、次に多くのお客様に来てくださいとの願いとゲンを担いで「ドンドンドントコイ、ドントコイ、ドントコイ」と聞こえるように打ちます。そして最後のところでバチを「入」という字の形にして太鼓の表面を押さえます。大入りになるようにとの縁起を担いでいるそうです。一番太鼓は舞台の袖で打つものですが、新開地の喜楽館では表の商店街で打つそうです。また、一門によって打ち方が異なるとのことでした。
そして開演の際に打たれるのが「二番太鼓」ですが、繁盛亭では「お時間~」の声が合図で開演されるそうです。その時に打たれる太鼓は「お多福来い来い、お多福来い来い」と聞こえるように打たれます。
終演の際に打たれる「ばれ太鼓」は、お客様が出ていく際には「出てけ、出てけ、出てけ」と打ちますが、お客様は余韻に浸ってなかなか出ていかないので、固まらないで出て行って下さいと「テンデバラバラ、テンデバラバラ」と打ちます。そしてお客様が帰られた後は「おろし」を打って、戸を閉め小拍子をチョンと打って寄席(興業)の終わりとなります。これはお客様に対する合図でもありますし演者に対する合図でもあります。また寄席のスタッフに対する合図でもあり昔からあるものではないかということでした。
講師は入門時に手本がないのでユーチューブとかの映像をみて相撲の太鼓の真似をして大変怒られたそうですが、太鼓を打ったりしてゲンを担ぐのは元々歌舞伎や狂言にあったものを落語家は借りて真似ているので少しは遠慮して太鼓を打つのも作法のうちではないかとのことでした。
この一番太鼓、二番太鼓、ばれ太鼓を打てるようになることが入門して最初に覚えなければならないことだそうです。
また演者が落語をしている時に下座がそれぞれの場面に応じて太鼓を打つことがありますが、前もっての稽古あるいはリハーサルはなく当日いきなり現場で打つので大変緊張するそうです。
「落語家とは何ぞや」ということについてもお話して頂きました。
音楽人(ミュージシャン)にはだれでもなれるが音楽家にはだれでもなれるわけではない。運転士にはライセンスを取ればなれるが、運転手という仕事をするにはそれなりの時間とセンスと技術が必要です。また、落語家にはカルチャーセンターに行ったとしてもなれるわけではなく、師匠に弟子入りしお茶を汲み、一番太鼓を打ったりして、ラグビーでいうところの「All for One」、「One for All」の精神で一門に受け入れてもらえるからだということでした。
ところで、「師」とは、技能、技術に卓越した人、ハイマスターに付ける称号だということです。
○芝居から学んだこと
講師が落語家になる前は、芝居をしていたそうですが、今から22年前に偶然劇団のオーディションを受けることになったそうです。元々はアルバイトを探しており、アルバイト雑誌で「劇団員募集(給料はありません)」の記事を見て給料がないのは不思議と思いつつも、一度はオーディションというものを経験してみようということで受けたところ16~17人の応募者のうち合格したのは講師一人だけだったそうです。
その劇団は小学校、中学校を回って芸術鑑賞の一環として演劇を見せ、残りの時間で年に二回程自分たちの好きな芝居をするということをしており、運営費用は国の助成金で賄っていたそうですが、この劇団での経験が講師のその後の人生に大きく影響したとのことでしたので、多くのエピソードの中から幾つかをご紹介したいと思います。
さて、多くの応募者の中からたった一人劇団に合格した講師は、芝居の才能があるのではないかと思い劇団の中のトップである演出家に、なぜオーディションに受かったかを尋ねたそうです。
帰ってきた答えは「君は一言も芝居の話をしなかったから」だったそうです。更に質問したところ「他の応募者は、大学時代に演劇をしていた、シェイクスピアが好き、三谷幸喜が好き、劇団四季が好き、小学生の時キャッツみて感動した、等すごく熱弁していた。そのような人はこんな小さな劇団で小屋の掃除をしたりはしない。君は何もないからそうやって掃除をしているのだ」と言われたそうです。
続いて、演出家から「音楽をやっているとオーディションの時に聞いたが、バンド名、演奏場所、曲、集客はどうしているのかと」聞かれたので「バンド名、演奏場所は仲間と相談して決めている。曲は自分たちで作っている。集客は、少しづつではあるが頑張って増やしている」と答えたところ、「君、大したことないね」と言われたのでどういう意味か尋ねたそうです。
演出家から返ってきた返事は、「野球選手は自身のポジションを自分では選べない。あのメジャーリーグでMVPに選ばれた松井秀樹でさえ高校時代はサードであったがその後はライトやセンターを守っている。イチローでさえも高校時代はピッチャーであった。野球選手は自分のポジション、を選べないどころか背番号、チームメイト、ユニホームも選べない。そういう選べない状況の中で力を発揮するのをプロフェッショナルという。君は、バンド名も演奏場所も曲もすべて自分達で決めていた。そういうのは素人というのです。君のやっていることは「我のまま」で「わがまま」だ」と言われたそうです。
その時演出家が言ったことは「上手くいきたければ、キーワードは「無我夢中」。自分を出来るだけ無い状態にして一生懸命すればよい。それを君みたいな人は持たないとうまくいかない」と言われたそうです。然しながら講師は怒りのあまりそのことの意味がよくわからなかったそうです。
劇団にいた3ケ月の間は1週間に8日位の感じで働いたそうです。休みが全くなく、一日で二日分の仕事をしたり、ありとあらゆる下働きや様々な端役もこなしたそうです。
ある時演出家に「給料は出ないと言って募集したが、劇団員の全員がOKすれば4ケ月目より全員と同じ給料が出る」と言われ、砂漠の中のオアシスと感じたそうです。そして劇団の小屋で劇団員全員が輪になって座り、講師はその輪の真ん中に座り、給料を出してよいかどうかの採決をしたところ2人の反対があり、結局4ケ月目も給料が出ないことになったそうです(それまで、4ケ月目から給料が出なかったことは一度もなかったそうです)。
反対した2人は男女各1人だったそうですが、そのうちの女性からは、「あなたは誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰り、掃除もし、片付けもやってくれる。お願いしたことはなんでもやってくれる。頑張っているみたい。だけど、あなたのやっていることは皆と同じ時間内で出来る。あなたは何か勘違いしている。早く来ないで良い。誰が早く来てと言った?あなたはいつも一生懸命だから新しいことも頼めないし、演技指導も出来ない。私らはあなたをフォローするのだけれどもそれが出来ない。」と言われ無性に腹が立ったそうです。然しながら、この女性の言葉は講師のその後の人生に大きく影響した言葉だそうです。
そして更に1カ月が過ぎ、同じように給料を出してよいかどうかの話し合いがもたれたそうですが、この時は前回反対したうちの1人は了承したそうですが、残りの1人(女性)はやはり反対したそうです。そこで、無給時代の稽古中に(栄養不足、休息不足で?)3度程失神こともあり、講師のケアをするのが大変ということで、演出家の独断で何とか給料を出してもらえるようになったそうです。しかしながら、皆と同じように給料をもらえるようになった途端に、体が動かなくなったそうで、女性の言うように早く来ている場合ではない、体調管理もしなければ思ったそうです。
その後も劇団では様々なことがあったそうですが、劇団の芝居を上演させて頂くために学校にパンフレットを配ったり電話で営業をしたりしていたところ演出家に呼び出され、「自分が出ていない芝居のパンフレットを配って何をしているのだ。明日学校にいってそのパンフレットを取り返してこい」といわれたそうです。それまでのことがあったりして講師は結構腹に据えかねていたので、劇団の評判が落ちても仕方がない、むしろ落ちれば良いのに位の気持ちで、学校に行って「自分が出ていない演劇ですので、パンフレットを返してください。そのように劇団の代表者に言われました」と折角配ったパンフレットを持ち帰ったりしたのですが、講師がパンフレットを返してもらう理由を説明したところ、怒るどころか「面白い劇団ですね。一度芝居を見てみたいわ」と思いもかけない言葉が返ってきて演出家の思うままになっていると思ったそうです。
また、電話についても、演出家から今から言うとおりに電話をするようにと指示があったそうです。その喋り口は、相手に対して大変無礼なため口であったそうで、怒って直ぐに電話を切る人もいたそうですが、話し込む先生もいたそうです。
そして、不思議なことに「思い白い子やね」とか言って、何件か仕事が入ってくるようになったそうです。そこで、周りの人に皆さんも同じことをしたのかどうか尋ねたところ、パンフレットを取りに行ったり、ため口の電話をしたり、誰もそのようなことをした人はいないことが判ったそうです。そこで気づいたのは「無我夢中」で仕事をしたから仕事が取れたのだなと。
それからしばらくして1年弱所属していた劇団を辞めることになりますが、そこから今まで22年間劇団には戻っていないそうです。
しかしながら、この時のノウハウ、体験が講師の下地に入っているとのことです。
○ミュージシャンとしてメジャーデビュー
講師は、劇団に入る前の19歳の頃から音楽をやっていたそうで、劇団には23歳の時に入り、それまで売れないミュージシャンを3年から4年やっていたのですが、劇団をやめて3ケ月でミュージシャンとしてメジャーデビューすることができたとのことでした。キーワード、「無我夢中」になれたことが要因だったそうです。自分の意思を持たずにどうやったらお役に立てるのか、どうやったらCDが並ぶようになるか、どうやったら多くの人の前で歌えるようになるのか、その状態でおれば意外と話を聞いてくれる人が現れ、その人が紹介してくれる人が現れ、その人が何かを言ってくれるとのことでした。
そして最終的に言ってくれることをこなせないと多くの人は思うそうですが、講師に声をかけてくれた人に言われたことは、「来週東京に来れる?」ということだったそうですが、講師は「はい、行けます」と返事し、夜行バスで上京し待機し、「こんな人だけど」と紹介され、「発売日を決めましょう」といわれ、それから4~5ケ月後には店頭にCDが並んだそうです。
講師は、このような状態になるのはもっと難しいものと思っていたが、単純なことをクリアさえすれば一足飛びに飛ぶことが可能と言われます。その後のオーディションは無敗だそうです。
劇団で学んだ「無我夢中」で取り組んだお蔭だということでした。
また、落語家になる時も取られない(採用されない)とは考えなかったそうです。「無我夢中」だからとのことです。「取らない」といわれても「はい」、「取る」といわれても「「はい」、明日訪問した時にも「また来たのか」と言われれば「はい」、「忙しいときに来られても困るな」といわれても「はい」。どのように言われようとまた行けば良いのであって、そのような気持ちで臨んだところ不思議なことに採用されたとのことでした。
○音楽の専門学校でのこと
講師は、音楽の専門学校で10年間講師をされており、学生にはこのこと(「無我夢中」)を伝えているそうですが、学生は実に「わがまま」だそうです。
専門学校では、4月に入学した100人の学生のうち実に40人がゴールデンウイーク明けに辞めていくそうです。
それは、学校に行きたいという「わがまま」で専門学校にきたものの、来たら来たで自分の「わがまま」が通らないという理由でやめていくそうです。何が上手くいかないかということではなく、それを自分のサイズに合わすことが出来ないからだそうです。
学生は感情を抑えきれないままG.W.明けに学校に対して様々なクレームを言うそうですが、その実例のいくつか紹介して頂きました。
① 学生:「先生」、講師:「はい」、学生:「梅田って何でこんなに人が多いのですか」、講師:「だけど、君が生まれるころには、もう人が多かったからあまり気にしなくていいのでは」
② 学生:「先生」、講師:「はい」、学生:「エレベーターが全然来ないんですけど」、講師:「だけど、エレベーターは簡単には増やせないので、下りるときは階段を使うことでどうですか」
③ 学生:「先生」、講師:「はい」、学生:「夜中に枕元に変なものが出てくるんですけど」、講師:「それは俺のせいではないけど」
そして彼らは、辞める時には実に雄弁に語って去っていくそうです。
「俺の世界はここじゃなかった」と。
○劇団のメソッド(Yes And)について
劇団には、メソッド=方程式があり、お孫さんとかお知り合いの若い方に教えてあげれば面接の時に使えるのではないかということでした。
それは、Yes And(イエス アンド)といい、芝居の教科書には書いてあるそうです。
そのやり方は、「受けて返す」、相手の言っていることを繰り返しその後に返事するということだそうです。
具体例としては、以下の様な遣り取りのことだそうです。
人物A:「雨降ってきたね」、人物B:「雨降ってきた」
人物A:「急に降ってきたからね」、人物B:「「急やね」
人物A:「傘持ってきたの」、人物B:「傘持ってこなかった。でも大丈夫ずっとアーケードの下を歩いて来たから」
人物A:「アーケードね。便利やね。濡れないから」、人物A:「そうだね、濡れないね。助かるよね。」
これをYes Andでやらなかった場合には、以下の様になります。
人物A:「雨降ってきたね」、人物B:「ああ」
人物A:「傘持ってきたの」、人物B:「あるよ」
人物A:「でもすごく濡れているね」、人物B:「傘ささなかったから」
人物A:「・・・」
このYes And は面接試験でも使えるのではないかとのことでした。
「今日はここまで迷いませんでしたか」
「はい、迷わずに来れました。ただ、ビルに入ってからどの部屋がここなのかちょっと人に伺ってきました。」
このように受けてから返す、これは芝居の基本でもあるとのことでした。
講師は、音楽でメジャーデビューするときも、学校で講師をするときもこのメソッドを使ってい
たとのことです。そしてこれが出来るように学生も指導したそうです。
このメッソドが上手くいった時は相手が「Yes And」をしてくるそうです。
こちらが受けて返そう、受けて返そうとしますが、波長があってくると相手が受けて返そう、受けて返そうとしてくるそうです。その時に相手がこちらの名前を覚えたり、特徴を覚えたりするそうです。講師曰く、「Yes And」は一言でいうと「気持ちのサービス」ではないかと。
この「Yes And」はメールの文章でも重要ではないかと言われます。
「明日、どこどこで集合。居酒屋で会食。会費いくら」のメールに対して、「はい」の返事だけでは味気なかったりします。逆に全くYesをしないでどんどんAndばかり送ってくるのも困りものです。
また、落語の世界でも「Yes And」はよく使われています。
昭和の大名人・枝雀師匠はこの「Yes And」を「人と人との会話の間に息継ぎをしてはいけない」としてとらまえておられたそうです。ただし、間が短すぎて人の会話が終わる前に話し出す「かぶせ過ぎ」も長すぎる「間延び」もNGと。
一方、談志師匠、志ん生師匠、(先代)春団治師匠等、名人と言われる落語家はこの間がすごく長く、息継ぎをしているのかなと思うほどだそうです。
他の人がこれをやると間延び、すっ飛ばすと間抜けといわれることになるそうです。
○古典落語「時うどん」
最後には有名な古典落語「時うどん」を演じて頂き、講演は終了しました。
この度のご講演では講師ご自身が経験されたことから導き出した「無我夢中」について熱く語って頂きましたが、多くのエピソードを交えての構成は非常にわかりやすくかつ説得力があり、自然と講演に引き込まれていきました。
この度のご講演をご縁に講師には柑芦会のその他の催し物にもご参加頂く機会を設けさせて頂きたいと思いますし、落語および音楽の世界で益々成長されビッグになられることを願って微力ながら応援させて頂きたいと思います
以上
ぶらくり会世話人 柑芦会神戸支部 平林 義康(大学20期)

開催日時:3月13日(水)午後6時30分~午後8時
開催場所:ホッとスタジオ

講師:露の新幸(つゆの しんこう)様
落語家(露の五郎兵衛一門)
(略歴)
1974年(昭和49年)生れ
大阪府出身
2014年(平成26年)露の五郎兵衛一門の露の新治師匠に入門
落語家になる前は音楽のインストラクターとして専門学校で講義をしたり、劇団に所属していたこともあるそうです。
「毎日高座に上がること」を目標に精進の日々を送られている由。
講演テーマ:『音楽と落語と芝居』
出席者数:15名
3月度ぶらくり会は落語家・露の新幸様に講師となって頂き、落語および落語家の世界、落語家になる前に経験されていた音楽および芝居(演劇)の世界、そして、それぞれの世界で経験・修得しその後の人生に役立っていることプラスになっていること等をエピソードを交えながらお話して頂きましたのでその概要を報告します。
○落語および落語家について
まず、講師が現在取り組まれている落語の世界の修業期間には大阪と東京では差があり、大阪は大体3年、東京は少なくもは5年ほど過ぎれば自立しても良く、それまでは下働きだそうです。
元々、道の往来で演じていた上方落語に対し、江戸落語は室内で芸を披露していたので描写が細かいそうです。
上方落語では細かい描写をしない代わりに「小拍子」や「はり扇子」を使って音を出しながら演じていたそうで、当日は落語「東の旅発端」を演じながら小拍子、はり扇子の実演をして頂きました。現在では小拍子、はり扇子を使っての落語はめったにやられないそうですが、講師は師匠からこれらの道具を使う練習を随分やらされたそうです。
また、同じ演目を演じるにしても一門によってその味が変わるそうです。
次に寄席では開場時、開演時と終演時に太鼓を打ちますが、これも下座の仕事だそうで講師にはそれぞれの太鼓の意味と打ち方を実演しながら解説して頂きました。
開場と同時に打つ「一番太鼓」は以下の流れで打たれます。まず木戸口が開くが如く太鼓の縁をたたいて「カラカラカラ」と音を立てますがこれは身内、関係者に対する合図でもあります。そして「おろし」という太鼓を打ち、次に多くのお客様に来てくださいとの願いとゲンを担いで「ドンドンドントコイ、ドントコイ、ドントコイ」と聞こえるように打ちます。そして最後のところでバチを「入」という字の形にして太鼓の表面を押さえます。大入りになるようにとの縁起を担いでいるそうです。一番太鼓は舞台の袖で打つものですが、新開地の喜楽館では表の商店街で打つそうです。また、一門によって打ち方が異なるとのことでした。
そして開演の際に打たれるのが「二番太鼓」ですが、繁盛亭では「お時間~」の声が合図で開演されるそうです。その時に打たれる太鼓は「お多福来い来い、お多福来い来い」と聞こえるように打たれます。
終演の際に打たれる「ばれ太鼓」は、お客様が出ていく際には「出てけ、出てけ、出てけ」と打ちますが、お客様は余韻に浸ってなかなか出ていかないので、固まらないで出て行って下さいと「テンデバラバラ、テンデバラバラ」と打ちます。そしてお客様が帰られた後は「おろし」を打って、戸を閉め小拍子をチョンと打って寄席(興業)の終わりとなります。これはお客様に対する合図でもありますし演者に対する合図でもあります。また寄席のスタッフに対する合図でもあり昔からあるものではないかということでした。
講師は入門時に手本がないのでユーチューブとかの映像をみて相撲の太鼓の真似をして大変怒られたそうですが、太鼓を打ったりしてゲンを担ぐのは元々歌舞伎や狂言にあったものを落語家は借りて真似ているので少しは遠慮して太鼓を打つのも作法のうちではないかとのことでした。
この一番太鼓、二番太鼓、ばれ太鼓を打てるようになることが入門して最初に覚えなければならないことだそうです。
また演者が落語をしている時に下座がそれぞれの場面に応じて太鼓を打つことがありますが、前もっての稽古あるいはリハーサルはなく当日いきなり現場で打つので大変緊張するそうです。
「落語家とは何ぞや」ということについてもお話して頂きました。
音楽人(ミュージシャン)にはだれでもなれるが音楽家にはだれでもなれるわけではない。運転士にはライセンスを取ればなれるが、運転手という仕事をするにはそれなりの時間とセンスと技術が必要です。また、落語家にはカルチャーセンターに行ったとしてもなれるわけではなく、師匠に弟子入りしお茶を汲み、一番太鼓を打ったりして、ラグビーでいうところの「All for One」、「One for All」の精神で一門に受け入れてもらえるからだということでした。
ところで、「師」とは、技能、技術に卓越した人、ハイマスターに付ける称号だということです。
○芝居から学んだこと
講師が落語家になる前は、芝居をしていたそうですが、今から22年前に偶然劇団のオーディションを受けることになったそうです。元々はアルバイトを探しており、アルバイト雑誌で「劇団員募集(給料はありません)」の記事を見て給料がないのは不思議と思いつつも、一度はオーディションというものを経験してみようということで受けたところ16~17人の応募者のうち合格したのは講師一人だけだったそうです。
その劇団は小学校、中学校を回って芸術鑑賞の一環として演劇を見せ、残りの時間で年に二回程自分たちの好きな芝居をするということをしており、運営費用は国の助成金で賄っていたそうですが、この劇団での経験が講師のその後の人生に大きく影響したとのことでしたので、多くのエピソードの中から幾つかをご紹介したいと思います。
さて、多くの応募者の中からたった一人劇団に合格した講師は、芝居の才能があるのではないかと思い劇団の中のトップである演出家に、なぜオーディションに受かったかを尋ねたそうです。
帰ってきた答えは「君は一言も芝居の話をしなかったから」だったそうです。更に質問したところ「他の応募者は、大学時代に演劇をしていた、シェイクスピアが好き、三谷幸喜が好き、劇団四季が好き、小学生の時キャッツみて感動した、等すごく熱弁していた。そのような人はこんな小さな劇団で小屋の掃除をしたりはしない。君は何もないからそうやって掃除をしているのだ」と言われたそうです。
続いて、演出家から「音楽をやっているとオーディションの時に聞いたが、バンド名、演奏場所、曲、集客はどうしているのかと」聞かれたので「バンド名、演奏場所は仲間と相談して決めている。曲は自分たちで作っている。集客は、少しづつではあるが頑張って増やしている」と答えたところ、「君、大したことないね」と言われたのでどういう意味か尋ねたそうです。
演出家から返ってきた返事は、「野球選手は自身のポジションを自分では選べない。あのメジャーリーグでMVPに選ばれた松井秀樹でさえ高校時代はサードであったがその後はライトやセンターを守っている。イチローでさえも高校時代はピッチャーであった。野球選手は自分のポジション、を選べないどころか背番号、チームメイト、ユニホームも選べない。そういう選べない状況の中で力を発揮するのをプロフェッショナルという。君は、バンド名も演奏場所も曲もすべて自分達で決めていた。そういうのは素人というのです。君のやっていることは「我のまま」で「わがまま」だ」と言われたそうです。
その時演出家が言ったことは「上手くいきたければ、キーワードは「無我夢中」。自分を出来るだけ無い状態にして一生懸命すればよい。それを君みたいな人は持たないとうまくいかない」と言われたそうです。然しながら講師は怒りのあまりそのことの意味がよくわからなかったそうです。
劇団にいた3ケ月の間は1週間に8日位の感じで働いたそうです。休みが全くなく、一日で二日分の仕事をしたり、ありとあらゆる下働きや様々な端役もこなしたそうです。
ある時演出家に「給料は出ないと言って募集したが、劇団員の全員がOKすれば4ケ月目より全員と同じ給料が出る」と言われ、砂漠の中のオアシスと感じたそうです。そして劇団の小屋で劇団員全員が輪になって座り、講師はその輪の真ん中に座り、給料を出してよいかどうかの採決をしたところ2人の反対があり、結局4ケ月目も給料が出ないことになったそうです(それまで、4ケ月目から給料が出なかったことは一度もなかったそうです)。
反対した2人は男女各1人だったそうですが、そのうちの女性からは、「あなたは誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰り、掃除もし、片付けもやってくれる。お願いしたことはなんでもやってくれる。頑張っているみたい。だけど、あなたのやっていることは皆と同じ時間内で出来る。あなたは何か勘違いしている。早く来ないで良い。誰が早く来てと言った?あなたはいつも一生懸命だから新しいことも頼めないし、演技指導も出来ない。私らはあなたをフォローするのだけれどもそれが出来ない。」と言われ無性に腹が立ったそうです。然しながら、この女性の言葉は講師のその後の人生に大きく影響した言葉だそうです。
そして更に1カ月が過ぎ、同じように給料を出してよいかどうかの話し合いがもたれたそうですが、この時は前回反対したうちの1人は了承したそうですが、残りの1人(女性)はやはり反対したそうです。そこで、無給時代の稽古中に(栄養不足、休息不足で?)3度程失神こともあり、講師のケアをするのが大変ということで、演出家の独断で何とか給料を出してもらえるようになったそうです。しかしながら、皆と同じように給料をもらえるようになった途端に、体が動かなくなったそうで、女性の言うように早く来ている場合ではない、体調管理もしなければ思ったそうです。
その後も劇団では様々なことがあったそうですが、劇団の芝居を上演させて頂くために学校にパンフレットを配ったり電話で営業をしたりしていたところ演出家に呼び出され、「自分が出ていない芝居のパンフレットを配って何をしているのだ。明日学校にいってそのパンフレットを取り返してこい」といわれたそうです。それまでのことがあったりして講師は結構腹に据えかねていたので、劇団の評判が落ちても仕方がない、むしろ落ちれば良いのに位の気持ちで、学校に行って「自分が出ていない演劇ですので、パンフレットを返してください。そのように劇団の代表者に言われました」と折角配ったパンフレットを持ち帰ったりしたのですが、講師がパンフレットを返してもらう理由を説明したところ、怒るどころか「面白い劇団ですね。一度芝居を見てみたいわ」と思いもかけない言葉が返ってきて演出家の思うままになっていると思ったそうです。
また、電話についても、演出家から今から言うとおりに電話をするようにと指示があったそうです。その喋り口は、相手に対して大変無礼なため口であったそうで、怒って直ぐに電話を切る人もいたそうですが、話し込む先生もいたそうです。
そして、不思議なことに「思い白い子やね」とか言って、何件か仕事が入ってくるようになったそうです。そこで、周りの人に皆さんも同じことをしたのかどうか尋ねたところ、パンフレットを取りに行ったり、ため口の電話をしたり、誰もそのようなことをした人はいないことが判ったそうです。そこで気づいたのは「無我夢中」で仕事をしたから仕事が取れたのだなと。
それからしばらくして1年弱所属していた劇団を辞めることになりますが、そこから今まで22年間劇団には戻っていないそうです。
しかしながら、この時のノウハウ、体験が講師の下地に入っているとのことです。
○ミュージシャンとしてメジャーデビュー
講師は、劇団に入る前の19歳の頃から音楽をやっていたそうで、劇団には23歳の時に入り、それまで売れないミュージシャンを3年から4年やっていたのですが、劇団をやめて3ケ月でミュージシャンとしてメジャーデビューすることができたとのことでした。キーワード、「無我夢中」になれたことが要因だったそうです。自分の意思を持たずにどうやったらお役に立てるのか、どうやったらCDが並ぶようになるか、どうやったら多くの人の前で歌えるようになるのか、その状態でおれば意外と話を聞いてくれる人が現れ、その人が紹介してくれる人が現れ、その人が何かを言ってくれるとのことでした。
そして最終的に言ってくれることをこなせないと多くの人は思うそうですが、講師に声をかけてくれた人に言われたことは、「来週東京に来れる?」ということだったそうですが、講師は「はい、行けます」と返事し、夜行バスで上京し待機し、「こんな人だけど」と紹介され、「発売日を決めましょう」といわれ、それから4~5ケ月後には店頭にCDが並んだそうです。
講師は、このような状態になるのはもっと難しいものと思っていたが、単純なことをクリアさえすれば一足飛びに飛ぶことが可能と言われます。その後のオーディションは無敗だそうです。
劇団で学んだ「無我夢中」で取り組んだお蔭だということでした。
また、落語家になる時も取られない(採用されない)とは考えなかったそうです。「無我夢中」だからとのことです。「取らない」といわれても「はい」、「取る」といわれても「「はい」、明日訪問した時にも「また来たのか」と言われれば「はい」、「忙しいときに来られても困るな」といわれても「はい」。どのように言われようとまた行けば良いのであって、そのような気持ちで臨んだところ不思議なことに採用されたとのことでした。
○音楽の専門学校でのこと
講師は、音楽の専門学校で10年間講師をされており、学生にはこのこと(「無我夢中」)を伝えているそうですが、学生は実に「わがまま」だそうです。
専門学校では、4月に入学した100人の学生のうち実に40人がゴールデンウイーク明けに辞めていくそうです。
それは、学校に行きたいという「わがまま」で専門学校にきたものの、来たら来たで自分の「わがまま」が通らないという理由でやめていくそうです。何が上手くいかないかということではなく、それを自分のサイズに合わすことが出来ないからだそうです。
学生は感情を抑えきれないままG.W.明けに学校に対して様々なクレームを言うそうですが、その実例のいくつか紹介して頂きました。
① 学生:「先生」、講師:「はい」、学生:「梅田って何でこんなに人が多いのですか」、講師:「だけど、君が生まれるころには、もう人が多かったからあまり気にしなくていいのでは」
② 学生:「先生」、講師:「はい」、学生:「エレベーターが全然来ないんですけど」、講師:「だけど、エレベーターは簡単には増やせないので、下りるときは階段を使うことでどうですか」
③ 学生:「先生」、講師:「はい」、学生:「夜中に枕元に変なものが出てくるんですけど」、講師:「それは俺のせいではないけど」
そして彼らは、辞める時には実に雄弁に語って去っていくそうです。
「俺の世界はここじゃなかった」と。
○劇団のメソッド(Yes And)について
劇団には、メソッド=方程式があり、お孫さんとかお知り合いの若い方に教えてあげれば面接の時に使えるのではないかということでした。
それは、Yes And(イエス アンド)といい、芝居の教科書には書いてあるそうです。
そのやり方は、「受けて返す」、相手の言っていることを繰り返しその後に返事するということだそうです。
具体例としては、以下の様な遣り取りのことだそうです。
人物A:「雨降ってきたね」、人物B:「雨降ってきた」
人物A:「急に降ってきたからね」、人物B:「「急やね」
人物A:「傘持ってきたの」、人物B:「傘持ってこなかった。でも大丈夫ずっとアーケードの下を歩いて来たから」
人物A:「アーケードね。便利やね。濡れないから」、人物A:「そうだね、濡れないね。助かるよね。」
これをYes Andでやらなかった場合には、以下の様になります。
人物A:「雨降ってきたね」、人物B:「ああ」
人物A:「傘持ってきたの」、人物B:「あるよ」
人物A:「でもすごく濡れているね」、人物B:「傘ささなかったから」
人物A:「・・・」
このYes And は面接試験でも使えるのではないかとのことでした。
「今日はここまで迷いませんでしたか」
「はい、迷わずに来れました。ただ、ビルに入ってからどの部屋がここなのかちょっと人に伺ってきました。」
このように受けてから返す、これは芝居の基本でもあるとのことでした。
講師は、音楽でメジャーデビューするときも、学校で講師をするときもこのメソッドを使ってい
たとのことです。そしてこれが出来るように学生も指導したそうです。
このメッソドが上手くいった時は相手が「Yes And」をしてくるそうです。
こちらが受けて返そう、受けて返そうとしますが、波長があってくると相手が受けて返そう、受けて返そうとしてくるそうです。その時に相手がこちらの名前を覚えたり、特徴を覚えたりするそうです。講師曰く、「Yes And」は一言でいうと「気持ちのサービス」ではないかと。
この「Yes And」はメールの文章でも重要ではないかと言われます。
「明日、どこどこで集合。居酒屋で会食。会費いくら」のメールに対して、「はい」の返事だけでは味気なかったりします。逆に全くYesをしないでどんどんAndばかり送ってくるのも困りものです。
また、落語の世界でも「Yes And」はよく使われています。
昭和の大名人・枝雀師匠はこの「Yes And」を「人と人との会話の間に息継ぎをしてはいけない」としてとらまえておられたそうです。ただし、間が短すぎて人の会話が終わる前に話し出す「かぶせ過ぎ」も長すぎる「間延び」もNGと。
一方、談志師匠、志ん生師匠、(先代)春団治師匠等、名人と言われる落語家はこの間がすごく長く、息継ぎをしているのかなと思うほどだそうです。
他の人がこれをやると間延び、すっ飛ばすと間抜けといわれることになるそうです。
○古典落語「時うどん」
最後には有名な古典落語「時うどん」を演じて頂き、講演は終了しました。
この度のご講演では講師ご自身が経験されたことから導き出した「無我夢中」について熱く語って頂きましたが、多くのエピソードを交えての構成は非常にわかりやすくかつ説得力があり、自然と講演に引き込まれていきました。
この度のご講演をご縁に講師には柑芦会のその他の催し物にもご参加頂く機会を設けさせて頂きたいと思いますし、落語および音楽の世界で益々成長されビッグになられることを願って微力ながら応援させて頂きたいと思います
以上
ぶらくり会世話人 柑芦会神戸支部 平林 義康(大学20期)
